マドモアゼル ルノルマンとは?

このページでは、マドモアゼル ルノルマンとはどんな人物だったのか?どんな人々と相関関係にあったのかなどを知りたいあなたのために、現在調べられている限りでの生い立ちや、歴史を簡単に説明しています。


ルノルマンとジョセフィーヌが最初にあったときのことを、レクサンダー デュマが書いています。

マドモアゼル ルノルマンと友情を交わしたと言われるジョセフィーヌの戴冠式
マドモアゼル ルノルマンと友情を交わしたクライエント ジョセフィーヌの戴冠式の絵画とルノルマンスクール・プリンシパルJUJU

フランスのアランソンに生まれ、舞台女優を夢見た少女時代

マドモアゼル ルノルマンの幼少期

1772年 5月27日

フランスはアランソンの聖レオナルドのパリッシュチャーチで洗礼を受ける。

伝統的には、誕生の3日後あたりに洗礼を受けることになっているので、実際の誕生日は24日ごろではないかと思われる。


洗礼を受けた日の午後0時をもとにしたホロスコープはこちら。

 

コメディ―フランセーズに魅せられて、舞台に立ちたいと憧れた少女時代だったが、容貌を考えると、女優になるよりも何か異なることで名声を得る方はが良いと思われた。



聖レオナルドとは?

聖レオナルドが活躍したのは6世紀ごろとされ、初代フランク国王クローヴィスClovis(在位481~511)の妃クロティルドClothildeのンん算を救ったことから、妊婦の守護聖人ともされる。

アランソンとは?


オルヌ川とバス・ノルマンディ地方に隔てられているとはいえ、アランソンはペイ・ド・ラ・ロワール地域圏に属するル・マンと密接な関係を持つ。すでに古代にはアランソンには町があったと思われる。フランク王国メロヴィング朝時代には百人組が置かれ、この地方における軍事と行政の拠点であった。7世紀初頭からカロリング朝を通じて900年頃まで、centena Alancioninsis が置かれた。フランク王国の地方官であったアランソン伯は、やがてこの地帯の世襲君主となり、のちに公爵となった。




運命は妹の誕生と父の他界から始まった

 

1773年

妹ソフィが生まれた直後、父が他界してしまう。


1774年

その翌年、ルノルマンの母はIssac Rpsayと再婚する。


1775年

その翌年、ルノルマンに弟Francois-Louisが生まれる。


1777年

母は、出産の失敗で生命を落としてしまう。


1778年

義父Issacはパリで、ビジネス展開を始める。

ルノルマンの母(妻)が死んでしまったので、17歳のMarie Jeanne Cannuと結婚した。

彼女は、ルノルマンをはじめとした子供たちのお姉さんのような存在となるが、この女性もまた

この年に、出産の失敗で生命を落としてしまう。


1779年

その翌年、Issacは、18歳のLouise Heryと結婚。

ルノルマンたち3人の子供たちの継母となったLouiseは、子供たちをこき使って苛めた。


1780年

ルノルマンは7歳になるので、名づけ親が彼女をベネディクト系のモンサルト コンベント スクール(女学校)に入学させる。


1781年

この年から、いよいよルノルマンの予言が始まる。

 修道長の隠していたことをサイキックな能力で暴いてしまったのか、保護者が呼び出されて厳重な注意を受ける。

パリ、そしてロンドンへと旅立ち、運命を切り開く

パリとロンドンでのマドモアゼル 

マドモアゼル ルノルマンの人生を占った2枚引きのカード
エッティラ(エテイヤ、ジャン・バプティスタ・アリエッテ、ジャン・フランソワ・アリエッテとも呼ばれる)

 1782年

アトリエでシームレスの縫製の見習いとなる。(いわゆる下着のお針子さんのこと)

このアトリエの同僚がエッティラのタロットカードをもっていてルノルマンを占った。


カードは2枚引きで、出たのは『太陽』と『力』


このカードによって、ルノルマンの将来の成功が約束されたも同然となった。


ルノルマンは、このエッティラのカードが欲しくてたまらなかったが、高価なものだったので、しかたなくトランプを代用として買うことにした。



1784年

2年間に及ぶ、酷寒の冬が原因の不況により、アトリエは閉鎖されることになった。当然、ルノルマンも解雇され職を失った。この年、食糧が乏しくなり、人々は餓えに苦しめられた。

 


※ エッティラとは?

タロットにエジプトの起源があるという考えを用いて、エッティラは新解釈のエッティラ版タロットを作ったことで有名。

魔術の起源がエジプトにあると考える所以は、その背後にアトランティス文明の存在があると考える神秘主義に裏付けられる。

 

クール ド ジェブランがタロット起源エジプト説を唱える前は、タロットはイタリア生まれとされ、ビジネスカードや名刺、ギャンブルを行うためのゲームカードの性質をもっていて、神秘性よりも『遊び』に近い存在だった。

そのために、タロットカードでのギャンブルなどが禁止されるようになるなど、今日のギャンブルそのものに対する扱いと似た状況があった。

エッティラの業績と呼ばれるものは、神秘主義と結びつけることで、カードと人間の無意識を繋げたことにある。


マドモアゼル ルノルマンに影響を与えた人物
Johan Kaspar Lavatar

1786年

ルノルマンは義理の父を頼ってパリに出る。

持参した3つのものは、白いドレス、トランプ、そしてホメーロスのエピック『イリアド』だった。


義理の父の店のキャッシャーとして働くと、計算力に優れ、売り子としての腕前も良かったので、お客さまからの人気を得るようになる。

お客様の中の一人のセールスマンが、ルノルマンに1冊の本をくれた。

その本こそが、ルノルマンを次の段階へと導くことになったカバラとピタゴラスの数秘術の本だった。


ルノルマンはエッティラのタロットカードリーディングが受けたかったが、現在の金額にして役0万円もするので、王の不思議な死を予言したJohan Kaspar Lavatarに会うことにした。


残ったお金で、エッティラのタロットカードとデッキと解説書、そしてトランプの小冊子を手に入れた。


初恋の人と再会

1787年

ルノルマン15歳の時、幼馴染の青年 ジャック ルネ エベール(Jaques-Rene Hebert)に再会する。


マドモアゼル ルノルマンには、多くの有名人クライエントのエピソードがあるが、恋の話や浮いた話があまり聞かれない。しかし、パリで再開した幼馴染のエベールには、少なからずとも心を寄せていた。


エベールとは一体どんな人物だったのでしょう?

1790年

「デュシェーヌ親父」を創刊。卑語を駆使して右派をが激しく攻撃し、サン・キュロットの指導者として頭角を現した。タンプル塔に幽閉されていたルイ17世の後見人にジャコバン派の靴屋アントワーヌ・シモンを指名する。マリー・アントワネットへの有罪判決と処刑を求め、シモンらとルイ17世を虐待、洗脳し「マリー・アントワネットとエリザベート内親王は、ルイ17世と近親相姦を行っていた」というでっち上げの書類にサインをさせた。ジロンド派の追放とジャコバン派独裁に貢献し、恐怖政治の維持とキリスト教を廃して「理性の崇拝」と称される合理的な祭典を行った。

 1794年

同じジャコバン派のロベスピエール派に対する蜂起を呼びかけたが失敗。逮捕されて革命裁判にかけられ、ギロチン台へ送られた。

ちなみに、逮捕の理由は「シャツの窃盗罪」だった(出展Wikipedia)



また、この年、マドモアゼル ルノルマン自身は、この年にセーヌ川の土手で魔術の儀式を行ったという理由で捕まる。

マドモアゼル ルノルマンに影響を与えた人物
Franc Joseph Gall

1789年

この年の1月ごろから、占星術のBanaventure Guyonの見習いとなり、占星術を習う。

また、Franc Joseph Gallという医師で魔術師が行うPhreniligy(スカルリーディング)に興味を持ち、彼の活動している英国に行きたいと思い、占星術的な時期と場所を選んでロイヤルガーデン宝くじに全財産を投入し、その春、みごと12000フランを当てた。

 

そのお金でロンドンへと旅立ったところ、ルノルマンの頭蓋骨はリーディングに最もてきしていると彼からおスミ付きをもらった。

1789年(同)ルノルマンはロンドンに占星術の店を出した。それは、Mademoiselle Lenormand of Paris Astorogueパリの占星術師・マドモアゼル ルノルマンという名称だった。

※phrenology(ギリシャ語から:φρήν、phrēn、"心";とλόγος、ロゴは、「知識」)は、脳が心の器官であるという概念に基づいて、主に人間の頭蓋骨の測定に焦点を当てた疑似科学であり、その特定の脳領域は、特定の機能またはモジュール、ローカライズされている[1]1796年のドイツの医師フランツ·ヨーゼフガルが開発した[2]規律は、特に約1810から1840骨相学のための主要な英国の中心部までは、19世紀には非常に人気があったエジンバラ骨相学の学会が1820年に設立されたエディンバラだった。 

今道徳哲学と原始神経解剖学の廃止された合併とみなしているが、骨相学の考え方は、19世紀の精神医学と現代脳科学に影響を与えてきました。文字、思考、感情、脳の局所的な部分に配置されていることをガルの仮定は、神経心理学に向けた重要な歴史的な進歩であると考えられる。

(出展Wikipedia)

Banaventure Guyon

Bonaventure Guyon, astrologer, professor of celestial mathematics, as he liked to be called. It would certainly have been left anonymously if after his disgrace of 9 Thermidor, Bonaparte, in person, no one came to see it. 

 

Guyon revealed his future and what he says about his past allowed the future emperor to be confident in his knowledge of the stars. Troubled, Bonaparte returned to see him several times, until one day, pushing his predictions much further, he announced his retirement from Russia, exile and even death on an island. Furious, then First Consul Bonaparte, ceased to meet.


パリ、そして失恋

女優は断念。そして失恋も・・・

1790年

ルノルマンは裕福な女性となって故郷アランソンに帰った。

そこで妹とともに軍隊にいる弟のプロモーションを行った。

1791年

パリの戻って、ルノルマンが知ったのは、エッティラがすべてを残したまま姿を消してしまったことだった。

友達のエベールは、彼の著述により名声を得ていた。

ルノルマンは、ここで舞台生活を送りたいと思い、女優になろうとするが、彼女の演技は誰に認められることがなかった。

失望した21歳のルノルマンは、Rue de Tournon 9にサロンを設けることにした。

ここの住所は、後にRue de Tournon 5となった。

そのサロンの看板にはMademoiselle Lenormand,Librair』マドモアゼル ルノルマンの書店 と書かれていた。

元老院前のスクエアからセーヌ通りに抜けるルー トルノンをまっすぐ歩いてくると右手にナンバー5の建物が見えて来る、ここにサロンがあった。
元老院前のスクエアからセーヌ通りに抜けるルー トルノンをまっすぐ歩いてくると右手にナンバー5の建物が見えて来る、ここにサロンがあった。

1792年

マドモアゼル ルノルマンが画家acques-Louis Davidなどとも出会ったハイソサエティで、友人のエベール(Hebert)がFrancoise Goupileとの披露宴を行った。このことは、エベールに少なからずとも心を寄せていたルノルマンにとって残念なことだった。

フランス革命の真っただ中へ

フランス革命の中心へ

マリー アントワネット
マリー アントワネット

1793年

この年のある晩、3人の男性がルノルマンのサロンを訪れ、3人一緒にリーディングしてほしいと言った。我々3人は強い絆で無図ばれているので、運命も一緒のはずであると言う。

 

マドモアゼル ルノルマンは、すぐにこの3人が革命の立役者であるマラーとロべスピエール、そしてサン ジャスだと気づいた。

3人の運命を一緒にシャッフルし、それぞれのカードを裏向きにしてテーブルに置いた。

そして、エッティラのタロットを12枚引いたのちに、3枚の裏向きのカードをひっくり返し、その上に1枚ずつタロットカードを置いて行った。

 

その行為を見ていた3人は、リーディングが始まっていないのに、いきなり笑いだして、マラーがカードの上にお金を放り投げた。

カードリーディングが完結していない時期に、お金を投げるなど、もってのほかである。ルノルマンは構わずにリーディングを続け、3人に向かってこう言った。

「あなたたち3人は、1年以内に残虐な死を迎えることになるだろう。特にマラー!貴方あ、仲間の先駆けとなって生命を落とし、人々はあなたに対して反目するようになる。」

 

この予言を聞いたマラーは、怒った口調で「お前のリーディングは間違っているだけでなく、人民への誹謗中傷そのものだ!私たち3人は革命に生命をかけていて、死ぬときは一緒だ!」

 

3人はそう言うと、ルノルマンを嘲笑しながら部屋を出て行った。

ルノルマンのカードリーディングを受けたフランス革命家
マラー
ルノルマンのカードリーディングを受けたフランス革命家
サン ジャス
マドモアゼル ルノルマンのカードリーディングを受けたフランス革命家
ロベス ピエール

マドモアゼル ルノルマンがリーディングをしていたポン ヌフ
現在のポン ヌフの橋 恋人の鍵でいっぱい

 

この年の中半、ルノルマンはマリー アントワネットの窮地を救うための王族の晩さん会に出席することになった。

翌日、その夕食の席にいた人たちを警察官が捜査していることを知り、ルノルマンは逮捕されるかもしれないと言う恐れに青くなった。

その時、既にコラボレートすることをやめていた占星術師のGilbertは、彼女に革命軍の側にいる労働者階級の人たちと同じような出で立ちをして、占いを受けにやってくるお客様たちのために、ターバンを巻き、頭に羽飾りをつけて、ポンヌフの橋の上で一般人のためのリーディングをするように促した。

 

5月7日のこと

10日後にギロチンにかけられると予言された男性が、ちょうどその日、首がつながったまま警察官といっしょにやってきて、ルノルマンを逮捕させた。

 

2日間、牢屋に入れられた後、10リブラの罰金を支払わされたルノルマンは、マリーアントワネットの処刑が終了するまでその後4か月間、身を隠すことにした。

 

 1794年

3月 ルノルマンの幼馴染のHerbertが逮捕され処刑されてしまった。

暴動が続いていた間のことだった。

6月17日 ルノルマンも逮捕され、ラ フォース刑務所に連れられて行った。そこは、ルノルマンが多くの貴族や革命家たちのコンサルテーションを行った場所だった。

7月28日 マクシミリアン ロベスピエールとルイ アントワーヌ サン ジャスはギロチンにかけられて、革命的な暴動の幕が下りた。

8月5日 ルノルマンはやっと酷い留置生活から解放された。

 

ジョセフィーヌとの出会いと、占いの数々

ジョセフィーヌとの出会い、占いの数々

1796年

友人であり弟子のマダム モローの証言により

マドモアゼル ルノルマンのサロンをはじめてジョセフィーヌが訪れた時には、テレーズ カバリュスと一緒だったことがアレキサンダー デュマの作品に書かれている。

 

この2人は、投獄されていた牢屋で知り合い、また、テレーズもナポレオンと関係をもっていたとされ、2人ともバラスの愛人だった時期があるなど共通点があります。テレーズの父親は、後にスペイン銀行の頭取となっているなど、ロスチャイルドとの関係があることがうかがわれます。

ルノルマンとジョセフィーヌ ドゥ ボーハネスとの友情が芽生え始めた。

ボナパルトという若い士官との結婚を薦め、ジョセフィーヌはその男性とこの年の3月9日に結婚し

た。

 

ジョセフィーヌの動向は、テレーズ カバリュスの存在なしに理解することは難しい。

なぜなら、この2人はテルミドールの牢獄から脱出し、バラスを共有の愛人とする等、人生の一時期を密接な関係をもっていたからである。

 

マドモアゼル ルノルマンとジョセフィーヌの友情が芽生えていくはじめの段階、ジョセフィーヌはリーディングをテレーズと一緒に受けてよいかどうかをたずねている。

マドモアゼルは、2人の婦人が一緒に意識の中に入ってくると、どちらの情報がどちらのものかわからなくなるので、一人ずつしかリーディングできないと答えた。

そして、最初にリーディングを受けたジョセフィーヌがナポレオンの妃になるということを伝えたところからはじまる。

 

デュマの作品には、その頃のルノルマンは右肩が上に不自然に上がった、醜い容貌の女性で、スカートを2枚重ねに履いていたと書かれているが、マダム モローは、ルノルマンの死後、彼女の行動を揶揄した本を出版するなど、ルノルマンに対して少なからずとも、良い印象をもっていなかったところから鑑みて、実際のルノルマンの容貌よりも、見劣りするような表現をしたとしてもおかしくない。

 

1796年~1801年

マドモアゼル ルノルマンは、貴族から労働者階級までの多くの人のために働き、世帯主となることができた。

彼女の占術の種類は拡大し、タロット、占星術、カード占い、数秘術、卵占い、手相占い、水占い、鏡占い、顔相占い、挽き割りコーヒー占い、雄鶏占い、キャンドル&ランプ占い、等々の占いを行っていた。

また、演劇のシナリオもいくつか書いた。

しかし、いろいろ物入りでもあり、借金も増えてしまったので占いやコンサルテーションの料金の値上げを試みた。

5フラン(今日のお金で約100ドル=1万円ほど)で、クライエントの過去を開き、現在の状況を少し語り、未来への展望を伝えた。

彼女のクライエントたちは、このようなセッションに大変興味をもって、20フランを払い、詳細を知ることができるセッションへと時間を延長した。

占星術のフルセッションは400フラン

卵占いは100フラン

一問一答セッションでは、ピケのゲームカードから7枚、13枚、17枚のカードを引き、40フランで。

コーヒーリーディングは120フラン。

料金はこの時代としては法外だったが、人々はそれでも彼女のセッションを受け支払った。

 

ルノルマンは、ジョセフィーヌにも同様に占いを行い、彼女が戴冠し皇后になるということを何度も何度も伝えた。

そして、後にナポレオンが嫌ったマルメゾン=ジョセフィーヌの館にも、しばしばルノルマンの姿があった。

マドモアゼル ルノルマンが預言したイニシャルE
アンギャン公(duc d'Enghien)

 

1801年1月~1804年

ルノルマンはナポレオンに背く陰謀を働いたとして、マデロネット刑務所に投獄された。

投獄中に、ルノルマンは子供の頃に観たビジョンを再度観た。そのビジョンとは、王冠に関することでイニシャルのBとEであった。

Bは、ボナパルトのBだと思われるが、Eが誰のことを示すかは誰にもわからなかった。

しかし、B=ボナパルトによってE=アンギャン公が冤罪の末に処刑されたことから、ブルボン家とナポレオンの間は修復できない反目関係となった。


ルノルマンはこのことを予言していたのだ。

 

1804年3月

アンギャン公(Enghien)=Louis Antoine de Bourbon

 

彼女のクライエントは、イニシャル「E」の預言に驚いたが、警察は実際に彼女のサイキック能力によるものか、はたまたインサイダー情報を得ていたのか、疑惑をもった。

 

※アンギャン公

アンギャン公は、爵位を持つ。フランス貴族duc d'Enghien




ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン=コンデは、アンギャン公の称号で呼ばれる。中立のバーデン選亭侯国で潜伏中にフランス軍に王党派幹部として逮捕され、軍事裁判で死刑判決を受けて処刑された。いわゆるアンギャン公事件の被害者であるが、これは冤罪事件として知られている。(仏Louis Antoine Henri de Bourbon-Condé, 177282 - 1804321日)




 

1804年12月2日

ナポレオンは、自らを皇帝とし、ジョセフィーヌを皇后とした。

 

1809年

ルノルマンは再び12日間の拘留となる。

ナポレオンとジョセフィーヌの離婚が成立する間のみ、拘留され、成立後に開放された。ナポレオンとジョセフィーヌの離婚について、ルノルマンは以前から予告していたが、ナポレオンは彼女を介入を嫌ったために拘留して口をふさいだのだった。

離婚が成立したのち、ルノルマンはナポレオンに「あなたは、ジョセフィーヌというお守りを失った。」と告げた。

 

1814年

パリは連合軍の手に落ち、ナポレオンはエルバ島に島流しになった。

ルノルマンはブルボン王のルイ 18世が王位についたことをうれしく思った。


ロシアのアレキサンダー1世
ロシアのアレキサンダー1世

 

1814年5月

ロシアのアレキサンダー1世がジョセフィーヌの館を訪れたところ、ジョセフィーヌは、ルノルマンを紹介したので、オカルトの大好きなアレキサンダー1世は、ルノルマンのサロンを訪れることにした。

 

別の説では、1818年には、エクス・ラ・シャペルでヨーロッパ中の外交官の重要会議が開かれると聞き、そこに自分を売り込むために旅に出るが、国境越えで不正が発覚し、逮捕されたとある。

 

 

1814年5月29日

マルメゾンの館で、肺炎のためジョセフィーヌが他界。

本を著し、出版を始める

出版へ

1815年1月

ナポレオンの時代に、お咎めを受けていた著書『Les Souvenirs Prophetiques d’une Sybille 』をついに出版。

写本は、新しい王をはじめ、縁のある多くの人に贈られた。

 

1815年3月

ナポレオンが兵を率いてパリに戻ってきたので、王は身を隠すことになったが、ルノルマンはナポレオンの支配を嫌っていた。

ナポレオンは11週間のみの天下しかなく、後にブルボン家の采配に戻ると予言した。

 

1815年6月

ワーテルローの戦いにナポレオンは敗れ、セント ヘレナ島に流される。

ブルボン家のルイ18世は、再び帰り咲く。

1815年の最後の月の間、彼女の著書に対してプレスとの激論が戦わされた。

結果的に、ルノルマンは印刷会社を買うことにして、どんどん増刷できるようにしてしまった。

批判する者や、彼女の悪口を言うものたちは、彼女を有名にしてしまう役割を自然とになってしまうはめになる。

 

1817年

妹ソフィが他界。

姪と甥を引き取ることになる。

 

1818年

ベルギーにアレキサンダー1世が会議のために訪れることになり、ルノルマンもそこに呼ばれることになった。ドイツとのボーダーにあるこのAix-La-Chapelleという町に出かけたついでに、ベルギーに逃げたフランス革命家たちを訪れる。

 

1820年

姪が結核のために他界し、ルノルマンは心を痛める。

とうとう、甥のアレキサンダー ユーゴーだけが残されることになった。

Memoires Historiques et Secrets de L'Imperiatrice Josephine を出版し、一夜でベストセラーとなる。

しかし、この著書に対する攻撃もまたすさまじかった。

1821年

プレスとの拮抗に疲れ果てたルノルマンは、ブリュッセルに落ち着くことにした。

2か月ほどたったころ、社会に反する陰謀を行い、魔術や人の運を占ったという理由で逮捕され拘留される。

6か月の間、痛みを伴う酷い扱いを受けた。

 

1821年10月

パリに帰る。

 

1822年

英国に招待され、2年ほど滞在。

 

1824年

パリに帰り、古巣のサンジェルマンで執筆にいそしむ。

 

1831年

弟が、戦場で傷を負って没す。

ルノルマンは執筆とリーディングに没頭する。

 

マドモアゼル ルノルマンの最後

1843年6月27日

マドモアゼル ルノルマンはこの世を去る。

 

ペレ ラシェーズ墓地には、群衆が寄り集まり、ルノルマンの死を悼んだ。

知らない人が、「誰の葬式?女王か何か?」と聞き「いや、女王ではなく女王の友達で、彼女に予言を渡した人物だ。」

こんな会話がその日の新聞には掲載されていた。

※ペレ ラシェーズ墓地は、パリのメトロ2号線または3号線の駅「ペレ ラシェーズ」で下車したところにあります。マドモアゼル ルノルマンの眠るお墓は、墓地の壁にそって少し歩いたところにある正門から入ってまっすぐ歩いたところにあるサードディビジョンの中にありました。

 

周囲には少し背の高い建物のようなお墓があり、それに守られたような場所にあるため、ディビジョンの外側から見つけることは困難です。

個人の墓地が並んでいるので、永眠されている方々に許しを請いながら中央に進んでいくと、小さなガーデンのように花が咲いている一画が目に入ります。

 

エンジェルの置物が置かれていて、暖かい雰囲気の漂うお墓が見つかったら、花で埋もれているマドモアゼル ルノルマンの名前が彫られているかどうかを調べてみてください。

 

誰が埋め込んだのか、墓石の左側にはマドモアゼルがベルギーで投獄されていたときの肖像ががありました。

その他にも、カードリーディングやスピリチュアルセッションをする人たちがお参りしているのがわかるようなクリスタルやカードなども供えられています。

 

左の写真は2014年12月のクリスマスイヴにマドモアゼル ルノルマンのお墓をお参りしたJUJU・小宮ベーカー純子が淑女と花束のカードを捧げるべく写真に収まったものです。

右上がサードディビジョンの目印、右下が墓地の正門です。

 

この墓地には、歴史的に有名な人が多く葬られていますが、家族のための墓地でもあるので、マナーを守って参拝することを心がけたいと思います。

 

マドモアゼル ルノルマンには子供がいなかったので、甥に50万フランを残しました。

 

ルノルマンのリーディングは以下のようなものでした。

 

 

 

マドモアゼルは、こんな預言もしていた

撃沈されたるシタニア号の様子
撃沈されたるシタニア号の様子


いくつかの未来への預言を残したなかでも、1915年のドイツの参戦や、飛行機、宇宙旅行などが当たっているところから

再び脚光を浴びることに。



※ドイツの参戦はルシタニア号の撃沈から始まった。

1915年2月4日、ドイツ帝国はイギリスの周辺海域に封鎖海域を設定し、2月18日周囲を通過する船舶は警告無しで撃沈するという「無制限潜水艦作戦」を実行した。しかし、当時は完全な「無制限」ではなく、厳密な臨検手続きの上で戦時禁制品の搭載があれば、乗員の退避後処分(撃沈若しくは拿捕)する規定になっていた。ただし、この規定は艦隊の中にあったり、軍艦の護衛など戦争行為を行っておれば臨検手続きを省いて撃沈することができるというものであった。


1915年5月1日、ルシタニアはニューヨーク港54番埠頭から出港した。それ以前の4月22日、ドイツ大使館は、新聞に以下のような警告文を掲載していた。


警告!

大西洋の航海に乗り出される渡航者の皆様は、ドイツ帝国とその同盟国、イギリスとその同盟国の間に戦争状態が存在することを認識してください。すなわち、戦場はブリテン島の周辺海域も含みます。ドイツ帝国政府からの公式通達によれば、イギリスとそのあらゆる同盟国の国旗を掲げた大型船は、それらの海域において攻撃対象になります。イギリスとその同盟国の船に乗って戦場である海域に航海に乗り出す渡航者の皆様についても同様であり、その危険は自分自身でご承知下さい。

ドイツ帝国大使館,
ワシントンD.C. 1915年 4月22日


マドモアゼル ルノルマンの没後2年に・・・

セリエ デュ ファイエルという友人が、マドモアゼルの死後2年した頃『マドモアゼル ルノルマンの真実』という本を出版し、ルノルマンの自伝には虚構が多いと暴露した。この女性は、ルノルマンと一緒に暮らしていたと思われる人です。

 

 

同じく2年後の1845年、ニュルンベルグのG.P.Jビーリングからドイツ人のビジネスマンで、ノンフィクション作家のヨハン カスパー へヒテルがパーラーゲームとしてのプチ ルノルマンのデザインしたものを発行。

 

[ Das Spiel der Hofnung.]

mit einer neven Figurenkarte von 36 illm Blaättern.Zweite verbesserte Auflage.


しかし、へヒテルは1771年5月1日に生まれ1799年に28歳の若さで天然痘で逝去しているので、

この年に発行されたものは第2刷。

第1刷は、1799年へヒテルが没した年。この年マドモアゼル ルノルマンが没した1843年よりも

44年も前。

1772年生まれのルノルマンは、1799年には27歳だったはず。

1796年にジョセフィーヌに出会ってから、さまざまな縁故関係がつながって行ったと思われるところから

ドイツに伝わっていったあるルートを想像することができる。

それは、ジョセフィーヌとその友人テレージアは、ドイツのフランクフルトで活躍しはじめたロ―トシルト(ロスチャイルド)と手を結んでフランス革命に関与していたバラスの「女」だったところからドイツへのルートを想像することができる。

 

トランプ占いに後付けされた双六のようなパーラーゲームと考えることもできる。

 

『希望のゲーム』と名づけられたカードには、ルノルマンの名前がつけられており、パーラーゲームとしての遊び方は36枚のカードを1から順に並べ、ゲームを講じる人h6~8のチップを持ち、サイコロを振って前後に進み、35番目のカードで先に上がった人が勝ちとなる、日本の「双六(すごろく)」のようなゲーム。

この解説書の最後に、36枚のカードを8枚ずつ4段に並べ、余った4枚を5段目に並べて、紳士のカードと淑女のカードの隣接カードをリーディングするという恋占いの方法が示されている。

 

 




 

 その後、このカードは、レディ シャーロット ゲスト(Lady Charlotte Elizabeth Guest、のちにLady Charlotte Schreiber)という 英国の翻訳家でビジネスウーマンが彼女のコレクションのひとつとした。

彼女は、陶器など美しいアンチークの収集家でもある。

 

シャーロットは、ウェールズ語、アラビア語、ヘブライ語、ペルシア語などを学び、アーサー王伝説の元となったとも思われるウェールズの伝説「マビノギオン」を英語として著した人。

レディ シャーロットは、このようにウェールズに残るケルト神話などに憧憬が深くウェールズの人たちにも愛されていました。日本語では『マビノギオン~ケルト神話物語シャーロット ゲスト版』等、翻訳されている。

ウェールズの伝説はアイルランドの伝説とつながるところもあり、エッティラがタロットエジプト説を唱えたところから、タロットアトランティス説が浮上するなど、前文明からの知恵が、レディ シャーロットをインスパイアした中のひとつに、ルノルマンの名のついた『希望のカード』があったと思われる。

 

また、『希望のカード』の行方を調べると、シャーロットは、へヒテルの作ったルノルマンカードのプロトタイプを大英博物館に寄贈した都のことが解りました。大英博物館に行けば、初期のルノルマンカードを見ることができる!と、実際に行ってみたが、2014年現在、印刷物はすべて大英図書館に移されたとのことで、ジョン ディーの魔法陣や水晶透視のためのクリスタルなどはありましたが、ルノルマンカードやタロットカードは点字されていなかった。


最近では、このカード「希望のゲーム」の復刻版が再販売されている。


大英博物館所蔵ルノルマンカードのサイト


ルノルマン自身の著書と、彼女のことを書いた本や英語に翻訳されたものは、Googleの電子書籍の中に所蔵されているので、読むことができます。ただし、フランス語と英語です。


補足 トゥルン ウント タクシス

 

ルノルマンカードのナンバー1と酷似した、トゥルン ウント タクシスの切手。

 

 

イタリアの出身のトゥルン・ウント・タクシス家が富豪の階段を昇って行ったのは、1489年からでした。

きっかけとなったことは郵便です。

初期にははハプスブルク家のマクシミリアン一世の郵便物を無料で届けていたのですが、

ハプスブルク家に取り入ったタクシス家は皇帝の信任を得ることに成功。

彼らハプスブルク家が統治している地域に、郵便馬車を走らせていきました。

つまり、郵便のはじまりといったことがタクシス家によって行われたわけです。

 

その郵便のシステムが駅などの関連施設をを作り、ドライバーチェンジならぬ、「代え馬」を用意し、

馬車と馬車で手紙のリレーをするという手法でした。

 

かなり大がかりなもので、スピードも、運ぶ距離も、飛脚便をしのぐ規模でした。

 

この郵便制度の料金は非常に高いものあったので、タクシス家はますます財を成していき、貴族の位まで手に入れました。。

ハプスブルク家の下で貴族や聖職諸侯、外交官、商人の通信も扱う特権を得たことから、そのような財をなすことができたわけです。

 

また、トゥルン ウント タクシスは、郵便による情報網をもっていたので、情報通でした。

その情報は、霊感として表現され、タクシスは預言者であるようにもふるまいました。

しかし、情報は郵便業務から来ていたので、実際にそのような力があったわけではないと言われています。


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