俄かに話題になりはじめた、ルノルマンカードは
フランス革命の時代に、パリのサンジェルマン デ プレ近くRue de Tournon,のサロンや、ヴェルサイユ宮殿の中で、時の主役たちの運命をリーディングした、驚異のカードリーダー・マドモアゼル・ルノルマンにちなんでつくられたカードだとされています。
しかし、
まだまだ情報が少ない理由はいったいどこにあるのでしょうか?
JUJUは、次の3つが大きな理由ではないかと思っています。
その1
ルノルマンの著書がフランス語で書かれており、最初に印刷されたカードはドイツで出されている点等言葉の壁があること。
その2
ルノルマンカードは、マドモアゼル ルノルマンが使っていたカードではないので、正しいリーディングそのものが存在しないこと。
その3
マドモアゼル ルノルマンとは、本当に優れたサイキックだったのか?が、謎だということ。
■1768年5月27日生まれ
(誕生年を1772年と偽っていた時期がありますが、後年、1768年生まれだと訂正されました。)
■1843年6月25日没 享年75歳
ペレラシェール墓地の3ディビジョンに埋葬されています。
今もなお、お花を供えたりリーディングカードを備えるファンが絶えないようです。
ノルマンディのアレンコンにて、父ジャン ルイ アントンと、母マリーアンの間に生まれました。
両親を亡くしたマリーアン アレデイド ルノルマン(以下、マドモアゼル ルノルマン)は、パリに出てお針子などとして働き、その後、ロンドンに25歳(1793年ごろ)になるまで住んでいたと言われています。
または、パリのパン屋と結婚し、そこでカードの読み方を習ったとする人もいます。
さまざまな説があるので、真実はベールに包まれていますが、カードリーダーの真実はカードに聞くべし!と、真新しいトランプを使ってマドモアゼル ルノルマンとはどんな人だったのかをリーディングしてみました。
その結果、彼女は子供のころからサイキックだったと暗示されるダイヤの10が出てきました。
ご興味のある方は、こちらをご覧になって下さい。
ペール・ラシェーズ墓地 (ペール・ラシェーズぼち、Cimetière du Père-Lachaise) は、フランスのパリ東部にある墓地。エディット・ピアフ、ショパン、ビゼー、ポール・デュカス、プルースト、マリア・カラス、モディリアーニ等の世界的な著名人の墓が多くあることで知られている。
彼女の霊は墓地でたびたび目撃され、「ペールラシェーズの精霊」とも呼ばれているそうです。
ルノルマン カードは、彼女の存命時には存在しませんでした。
しかし、彼女の名前に縁を得るためか、ドイツのデザイナーが最初のプレイカードとして、ルノルマンカードを作ったと言われています。
しかし、ある文献には、ルノルマンの没後、彼女の財産を受け継いだ甥(妹の子供)が、彼女の部屋の中から36枚のカードセットを見つけたという記載もあります。
どちらが本当かは、今現在ではわかりません。
グランタブローと呼ばれる52枚組のルノルマンカードは、ルノルマンが変装して彼女のサロンを訪れたジョセフィーヌを占った時に使われていたと、同居していた占い師の女性によって語られたという記述もありますが、その女性の語っていることが本当かどうかも、調べる手が今となってはありません。
右の写真のルノルマンカードは、読み方も、シンボルもルノルマン プチ ジュ―とは別物と考えたほうが良いと思われるカードです。
これらを混同しないように、ここではルノルマン カードのプチ ジュ―をもとにご紹介していきます。
Jeuとは、ゲームなどを意味するフランス語です。
Petit Jeu とは、小さなゲームのことですが、このカードを実際に手にとって意訳すると「可愛いカード」「お洒落なお遊び」といった感じになります。
今までのタロットと違うところは枚数もそうですが、
やはり、洗練されたお洒落な点だと言うことができます。
しかし、プチ ジュ―だと言って侮ってはいけません。36枚のカードのジャクスタポジション(Juxtaposition)の1260通りを読み解いていくことで、知りたいことがかなりの精度で明かされていくのです。
マドモアゼル ルノルマンは、25歳までロンドンで過ごしたとされていますが、ロンドンでどんなグループに属していたかは、定かではありません。
フランス革命前の時代のロンドンと言えば、「黄金の夜明け団」などの魔術の秘密結社の前身となるフランスの思想家レヴィが生まれる前で、1736年に魔女狩りが公式に廃止された時期の直後なので、目だった動きがなくとも、アンダーグラウンドでの会合などがあったことは容易に想像できます。
マドモアゼル ルノルマンはこのような時期のロンドンで、魔術に関わりながらリーディングの精度を高めていったのかもしれません。
パリに帰って来てから、サンジェルマン デ プレの元老院に続くRue de Tournonに、サロンを設けてリーディングにいそしみました。
今でも、地代の高いこの地区に、マドモアゼル ルノルマンがサロンを持てた背後には、ナポレオンの妃であったジョセフィーヌの後ろ立てがあってこそとされていますが、彼女がなぜ成功していたのかには、他の理由があるかもしれません。
どちらにしても、マドモアゼル ルノルマンについての謎はついて回ります。
実は、謎に包むことで、彼女自身は守られたかもしれないと考えることもできると思われます。
詳しくは、「ルノルマンカードお話会」等でお話しします。
マドモアゼル ルノルマンを有名にしたリーディングは、まだ兵隊になったばかりのボナパルト ナポレオンの恋人だったジョセフィーヌに、「あなたは彼の妃になる」とリーディングし、その「妃」という名称から、ナポレオンが皇帝になることを示したことにあります。
貧乏な人から、皇帝に関する人たちまで、幅広い人たちのリーディングを行ったマドモアゼル ルノルマンは、フランス革命に関わったマクシミリアン ド ロベスピエールやレ ミゼラブルの革命の闘士のモデルともいえる、ルイ アントン ド サンジャス(セント ジャスト)などのリーディングを行ったとされています。
しかし、ギロチンにかけられるほどの政治家に、いったいどんな内容のリーディングをしたと言うのでしょう?
マドモアゼル ルノルマンの身は危険ではなかったのでしょうか?
何度も投獄されたルノルマンが無事に老齢で生涯を終えることができた背後には、いったい何があったのでしょう?
ジョセフィーヌとのナポレオンの結婚を占い、ジョセフィーヌの戴冠を予言したマドモアゼル ルノルマンは、時が経つにつれ、変化する関係を読み込み、2人の結婚の破たんを予言しました。
一介の占い師に離婚を示唆されたなどという恥をかきたくないナポレオンは、マドモアゼル ルノルマンを投獄。2人が公式に離婚するまで、獄中生活を余儀なくされたと言われています。
マドモアゼル ルノルマンの投獄はこの時だけでなく、フランス革命中も同様に投獄されており、罪状は「人々の人心を惑わす魔術的行為(ウィッチクラフト)を働いた咎で」だったとも・・・。
ジョセフィーヌが亡くなった後、スポンサーになる人がいなくなりましたが、占い師としては潤沢なお金や不動産を得ていたので、作家として本を著したりしましたが、こちらの方は、あまり人気が出なかったようです。
と、言うのも、まるでジャンケンの「後出し」のように、起きたことを小説風に書いていて、その出来事は自分がリーディングしたことだという、自己宣伝をしている内容だったからです。
ジョセフィーヌやナポレオンなどがクライエントだったということが信じられなくなってもおかしくないほど、あり得そうもないことが書かれていて、たとえば獄中にいたマリーアントワネットを、頭巾をかぶって変装してルノルマン自身が訊ねたなど、眉唾な内容が書かれていたからです。
また、フランス革命に関係した錚々たる面々のことも、もしかしたら作り話かもしれないと思われてもしかたがないわけです。
ルノルマン自身の著書と、彼女のことを書いた本や英語に翻訳されたものは、Googleの電子書籍の中に所蔵されているので、読むことができます。ただし、フランス語と英語です。
それが、このヨハン カスパー ヘクテルです。
1771年5月1日~1799年12月20日(享年28歳)
ドイツ人ビジネスマン ノンフィクション作家,デザイナー。
パーラーゲームとしてのプチ ルノルマンのデザインをした。
このカードは、レディ シャーロット ゲストという 英国の翻訳家でビジネスウーマンの所蔵となったのがそのひとつです。
彼女は、陶器など美しいアンチークの収集家でもあります。
シャーロットは、へクテルの作ったルノルマンカードのプロトタイプを大英博物館に寄贈したとのこと。
大英博物館に行けば、初期のルノルマンカードを見ることができると思われ、実際に行ってみましたが、現在、印刷物はすべて大英図書館に移されたとのことで、ジョン ディーの魔法陣や水晶透視のためのクリスタルなどはありましたが、ルノルマンカードやタロットカードは展示されていませんでした。もっとも、レディ シャーロットの寄贈したカードは、ルノルマンが制作したものではありません。
養子となった甥の発見したカードは、その後、どうなってしまったのか
とても気になるところです。
絵画のよると、彼女はふつうのトランプのようなものを使っているのがわかります。いったい、どんなカードを使っていたのでしょう?または、カードは仮の姿で、彼女のサイキックな才能によってリーディングをしていたのでしょうか?
1955年 東京に生まれる 桐朋学園大学短期大学芸術学部演劇科卒業
舞台、TV、映画の世界で活動した後、1990年からコズミックダンスワークをはじめ
1991年からチャネリングセッションなど個人のパラダイムシフトをサポートするワークを行う。1996年にスコットランド・エジンバラフリンジフェスティバルでコズミックダンス公演を行い、翌年からイギリスに息子2人を連れて移住。その後、ロンドンでレイキやリーディングセッションを行う。オーラソーマなどのセラピストのためのセッション多数。2000年から日本との往復をしながらリーディングのためのインタヴューやコミュニケーション、現実化を起こすための方法としてのSI-Vを広める。
2006年 コズミックダンスカンパニー合同会社を設立。
2014年 スピリチュアル・ブランディングのためのアートヴィレッジ設立。
2015年 ルノルマン・カードリーディングと講座を始める。
ルノルマンカードの存在は、日本ではまだまだ知られていませんが、
欧米では、静かなブームが巻き起こっています。
各国のブログには、ルノルマンカードを研究している方たちの熱心な投稿が、この数年間目につき、盛り上がりを見せています。
日本のスピリチュアルは、チャネリングブームのころからそうなのですが、アメリカから流れてくる情報が多いので、アメリカ人のカードリーダーたちから教わって、ルノルマンカードを日常に生かしている方たちもいらっしゃるようにみえます。
そこで、「JUJU式ルノルマンカードリーディング」の観点から、面白いお話しをしようと思います。
マドモアゼル ルノルマンのカードとの出会いは、2011年の冬至のころでした。場所は、北西イングランドのリヴァプールで行われていたスピリチュアル・フェスの会場でした。
自宅の最寄りの駅から、イギリス特有のオンボロ電車に乗って揺られること
ふらっと出、けることができるこの距離に、ビートルズで有名なリヴァプールがあります。ちなみに逆方向に電車に乗るとマンチェスターにつきます。
駅のそばにあるホテルで開かれていたこのスピリチュアル・フェスの会場前に着いたのは、3時過ぎ。12月のイギリスの午後3時と言えば、すでにとっぷりと暗くなっている時間ですから、クリスマスライトが街中にキラキラして、とても幻想的です。
風で雲が吹き飛ばされた空には、一つ、二つ、明るい星も煌めいていて、吐く息も真っ白になるほど空気が冷えています。
凍えてしまう前に、明るくてホカホカと暖かそうなホテルのレセプションへと飛び込むことにしました。
スピリチュアル・フェスの会場には小さなブースが所狭しと並んでいて、クリスタルを売る人、恋の魔法のグッズを売る人、アフリカの怪しげな置物を並べている人、ライフコーチ、レイキマスター、サイキックやタロットリーダーが早くも店じまいを始めていました。
それでも、閉会にはまだ時間があるので、ぶらぶらとブースを回りながら見て歩く私に声をかけてくれる人もいて、まったりしたスピリチュアル・フェスだなあと思いながらも、せっかく来たのだから、何か一つセッションを受けて帰ろうと思い、それならリーディングがいいなと、タロットリーディングのブースに向かいました。
3人ほどのタロットリーダーが並んでいて、待たずにすぐリーディングができるという女性の前に座ったのですが、なんだかあまりピンとこないのです。
彼女のリーディングは、私がどういう人でどんな才能を持っているのかなどをつたえてくれるものだったので、「私自身のことを知りたいのではなくて、これからの未来について知りたいの。」と伝え、その年の3月11日から連日にわたって起きた日本のディザスターが、未来にどんな影響を与えるのかをリーディングしてほしいと続けると、
「未来に現実的に何が起こるかを見るのは、私よりもこの人の方がうまいわ。私は、自分自身を知るためのリーディングを求めている人向きよ。」と、正直なところ話してくれたので、半分開きかけたタロットのスプレッドを途中で止めて、一つ右のブースに席を移すことにしました。
ルーマニック・リーディングと書かれたブースにいた人は、ふくよかで長い黒髪をもった30代後半と見える女性でした。
ルーマニックとはルーマニアから派生する言葉ですから、なるほど、彼女はジプシー占いをする人だとわかりました。
日本には、ジプシーが列をなして町に入り込むと言うことなど絶対にありませんが、欧州ではジプシーが町に来たら滞在させるようにしているところがあり、私の住む町にも、以前ジプシーの隊列がやってきて、その期間、かなり大変な目にあった人たちがいたことを思い出しました。
万引きはもちろんのこと、お店に汚物を置き土産にしたり、車のタイヤを取られたり、泥棒に入られたり、彼らが滞在しているときには、散々な目にあうのですが、嵐が去るのを待つように、町の人たちは経過を見守っているだけで、追い出したりしないのです。
いろいろな理由があるのだと思いますが、私もその時は、家の鍵はしっかり閉めて、用事のない時には出歩かないように気を付けたことを覚えています。
ジプシーに関してはそんな記憶しかなかったので、一瞬、どうしようかと思いましたが、本物のジプシーのリーディングが受けられるのは、滅多にないことだと気づき、逆にワクワクしてしまいました。
未来に何が起きるのか知りたいのだけど?
と、私が言うと、彼女はカードをシャッフルしながら、しばらく静かにして心を無にしていてねと言いました。
シャカシャカとシャッフルした後は、テーブルの上においてカードをバラバラにして混ぜると今度は、一つに戻して再びシャッフル。
その後は、タロットリーディングと同じように積み重ねたカードを3つに分けたり、カードの上に手を置いたりして、いよいよカードが展開されていく段階になりました。
特徴は、手持ちのすべてのカードを展開していく点。
最初は、1枚、2枚とカードを展開しながらカードの意味を読んでいき
私の質問の内容と照らし合わせていきながら、カードの意味にばらつきが起こらないように確認しているようでした。
そこからケルティッククロスの配置になったと思うと、スクエアになり、カードが綺麗に整列したり、質問によっては、カードが横一列に並ぶといった、そんなフレキシブルな動きをしながらカードとカードの関係性から、私の質問に対する答え、つまりそこから先の未来を読んでいるようでした。
たった一つの案件に対する答えではなく、さまざまなことをリーディングしてくれるので、仕事や人間関係、住む場所や今後の出版に関することなど、状況が一つの景色として見えて来るような感覚がありました。
今まで見たこともなかったカードだったのですが、彼女の言葉から「ここには雲がかかっている。」とか、「魚が出て来たけれど、この場合は、水の近くと言う意味。」とか、キングがどうで、クィーンがどうでと、私にはそのカードが何というカードなのか、彼女に聞くまでもなく憶測で「きっとジプシー特有のカードだろう」と思っていました。
過去に何かが終わるようなことがあり、1年~2年後には、何かの事情で水に関係したところに移動するとか、さまざまな可能性のある出来事を話してくれて、最後の最後に「本」を持った女性のカードがめくられて、「本を出すわね。」と。
今年、3冊目の本を出して、その本には2011年の出来事もいろいろ書いたので、なるほどこのカードリーディングは、3年後あたりまでをリーディングしてくれたのかと思い、もう一度、その先を同じ方法でリーディングしてほしいなと思っていました。
でも、同じジプシーに出会うことほど困難なことはなく、あきらめていました。
さて、ジプシーのカードで予告された本とみられる本を出版することになり、それを聞きつけた、静岡のアロマショップ『アンビエンテ』のオーナー貴子さんが、お話会を開いてくれました。
これがカードで展開された最後の出来事です。
お話会が終わり、集まってくださった方たちが一人また一人と会場を去った後、オーナーの貴子さんがあいさつをしながら小さな箱を私に手渡しました。
、これオーストリアで手に入れたんですけど、よかったら使いませんか?」
怖い顔をした女性が、2人の高貴な装いの女性にカードリーディングをしているイラストが描かれた小さな箱にはNo.194115と、フランス語で『マドモアゼル ルノルマン』と書かれていて、イラストの下にはドイツ語で「真実を伝えるカード」(Wahrsagekarten)と書かれています。
「欧州にはいろんなカードがあることはご存じだと思いますが、このカード、容赦なくはっきりと答えが出てくるんです。きっと、これから日本の人たちにも必要になると思うので、JUJU研究してみてくれませんか?」
出版した本の名前は『ユア ターン あなたの番』で、お祝いに頂いたものがオーストリア製のカード。
一体、これが何を意味しているのだろうと思っていると、ある人から連絡が入って来ました。
「今年の夏至のストーンヘンジツアーの後に、パリに行きたいのでセッティングしてくれませんか?」
もしかして、パリに呼ばれている?
さて、そこからどんどんシンクロが起こり続け
プレゼントにもらったカードの封を切らずにハンドバッグに詰めて、マドモアゼル ルノルマンと言う人について知るべく行動を開始しました。
そして、歴史の裏に隠された欧州で一番名高い女性占い師が、フランス革命の時代を生き抜くための知恵を、彼女のリーディングの「方法」にした為に、表向きのリーディングと暗号にも似た現実創造の知恵をしたためた真のルノルマンリーディングの双方をカードの中にしたためたことを観じられるようになりました。
次の冬至で、イギリスでジプシーにカードリーディングをしてもらった日から数えて3年になります。カードによって示された未来を体験し、その醍醐味を味わった次の瞬間、カードそのものが手渡され、今度は私がリーディングし、ルノルマンカードをみなさんに手渡す番が回って来ました。
フランス革命の時代にリーディングしていたマドモアゼル ルノルマンの時代からほぼ300年たち、ドイツで形になり、今この時代の人々に何かをもたらそうとしているのには、きっと訳があるのではないかと思いませんか?
先行きの分からないフランス革命の時代と現代世界に共通する何かがあるはずです。
ルノルマンカードの醍醐味に触れたい方、ぜひ、いっしょにこのカードを学びましょう。
1772年 5月27日
アランソンの聖レオナルドのパリッシュチャーチで洗礼を受ける。
ルノルマンの洗礼の日は分かるのですが、実際の誕生日はわからないので占星術ではブランクになっています。
コメディ―フランセーズに魅せられて、舞台に立ちたいと憧れた少女時代でしたが、容貌を考えると、何か異なることで名声を得る方がよいとも思われました。
※聖レオナルドが活躍したのは6世紀頃とされ、初代フランク国王クローヴィス Clovis (在位481~511)の妃クロティルド Clothilde の難産を救ったことから、妊婦の守護聖人ともされる。
フランス中西部のリモージュ Limoges 近くの森に修道院を建て、不運にも虜囚の身となってしまった人々の解放に力を注いだ。無実の罪に問われた人が聖レオナルドゥスの名を唱えるとたちまち鎖が切れて自由の身になるという奇跡が続出し、修道院や聖人の墓前には数多くの切れた鎖が献納された。
11世紀に記された聖人伝によってその名声はフランス全土はおろか、イギリス、イタリア、ドイツ、オーストリアなどに広まり、民衆の間で圧倒的な支持を受けるようになった。特に慕われるようになったのは、12世紀に始まった十字軍のエルサレム遠征の頃からである。象徴する持ち物は鎖や手錠であり、ロバに乗る隠者として描かれる。(WIKIPEDIA)
1773年
妹ソフィが生まれた直後、父が他界。
1774年
ルノルマンの母はIssac Rosayと再婚
1775年
弟Francois-Louisが生まれる
1777年
ルノルマンの母、出産の失敗により死亡。
1778年
義父Isaacはパリにビジネス展開を始める。
妻(ルノルマンの母)が死亡したので17歳のMarie Jeanne Cannuと結婚。
ルノルマンをはじめとした子供たちのお姉さん的な存在になるが、同年、出産の失敗で死亡。
1779年
Isaacは18歳のLouise Heryと結婚。
継母となったLouiseは子供たちをこき使った。
1780年
ルノルマンの名づけ親が、彼女をベネディクト系のモンサルト コンベント スクール=女学校に入学させる。
1781年
ルノルマンはいよいよ、この年から予言を始める。
内容は・・・?
1782年
アトリエでシームレスの縫製の見習いとなる。
このアトリエの同僚が※エッティラのタロットカードをもっていて、ルノルマンを占った。
カードの2枚引きは、『太陽』と『力』
このカードによってルノルマンは将来の成功を約束された。
エッティラのカードが欲しくてたまらなかったが、高価なので、しかたなくルノルマンはトランプを購入することにした。
1784年
2年間に及ぶ、酷寒の冬が原因でアトリエは閉鎖。
ルノルマンの解雇される。この年、食糧が乏しくなり、人々は飢えに苦しんだ。
※ エッティラとは?
タロットにエジプトの起源があるという考えを用いて、エッティラは新解釈のエッティラ版タロットを作ったことで有名。
魔術の起源がエジプトにあると考える所以は、その背後にアトランティス文明の存在があると考える神秘主義に裏付けられる。
クール ド ジェブランがタロット起源エジプト説を唱える前は、タロットはイタリア生まれとされ、ビジネスカードや名刺、ギャンブルを行うためのゲームカードの性質をもっていて、神秘性よりも『遊び』に近い存在だった。
そのために、タロットカードでのギャンブルなどが禁止されるようになるなど、今日のギャンブルそのものに対する扱いと似た状況があった。
エッティラの業績と呼ばれるものは、神秘主義と結びつけることで、カードと人間の無意識を繋げたことにある。
1786年
ルノルマンは義理の父を頼ってパリに出る。
持参した3つのものは、白いドレス、トランプ、そしてホーメロスのエピック「イリアド」
義理の父の店のキャッシャーとして働くと、計算力に優れ、売り子としての腕前もよかったのでお客様から人気を得るようになる。
お客様の中の一人のセールスマンが、ルノルマンに1冊の本をくれた。
その本こそが、ルノルマンを次の段階へと導くことになったカバラとピタゴラスの数秘術の本だった。
エッティラのタロットカードリーディングを受けたかったが、現在の金額にして約1000ドル(日本円で約10万円)もするので、王の不思議な死を予言したJohan Kaspar Lavatarに会う。残ったお金で、エッティラのタロットカードのデッキと解説書、トランプの小冊子を手に入れた。
1787年
ルノルマン15歳の時、幼馴染の青年ジャック ルネ エベール(Jacques-Rene Hobert)に再会する。
マドモアゼル ルノルマンには、多くの有名人クライエントのエピソードがあるが、恋の話や浮いた話があまり聞かれない。しかし、パリで再開した幼馴染のエベールには、少なからずとも心を寄せていた。
エベールとは一体どんな人物だったのだろう?
1790年
「デュシェーヌ親父」を創刊。卑語を駆使して右派を激しく攻撃し、サン・キュロットの指導者として頭角を現した。タンプル塔に幽閉されているルイ17世の後見人にジャコバン派の靴屋アントワーヌ・シモンを指名する。マリー・アントワネットへの有罪判決と処刑を求め、シモンらとルイ17世を虐待、洗脳し「マリー・アントワネットとエリザベート内親王はルイ17世と近親相姦を行っていた」というでっちあげの書類にサインをさせた。ジロンド派の追放とジャコバン派独裁に貢献し恐怖政治の維持とキリスト教を廃して「理性の崇拝」と称される合理主義的な祭典を行った。
1794年
同じジャコバン派のロベスピエール派に対する蜂起を呼びかけたが失敗。逮捕されて革命裁判所にかけられ、ギロチン台へ送られた。ちなみに、逮捕の理由は「シャツの窃盗罪」であった。(Wikipedia)
また、この年、マドモアゼル ルノルマン自身は、この年にセーヌ川の土手で魔術の儀式を行ったという理由で捕まる。
1789年
この年の1月頃から、占星術師Banaventure Guyonの見習いとなり、占星術を習う。
また、Franc Joseph Gallという医師で魔術師が行うPhrenoligy(スカルリーディング)に興味を持ち、彼の活動している英国に行きたいと思い、占星術的な時期と場所を選んでロイヤルガーデン宝くじに全財産を投入し、その春、みごと12000フランを当てる。
そのお金でロンドンへと旅立ったところ、ルノルマンの頭蓋骨はリーディングに最も適しているとおスミ付きをもらった。
Banaventure Guyon
Bonaventure Guyon, astrologer, professor of celestial mathematics, as he liked to be called. It would certainly have been left anonymously if after his disgrace of 9 Thermidor, Bonaparte, in person, no one came to see it.
Guyon revealed his future and what he says about his past allowed the future emperor to be confident in his knowledge of the stars. Troubled, Bonaparte returned to see him several times, until one day, pushing his predictions much further, he announced his retirement from Russia, exile and even death on an island. Furious, then First Consul Bonaparte, ceased to meet.
1789(同)
ルノルマンはロンドンに占星術の店『Mademoiselle Lenormand of Paris Astorogue』
を出し、貴族や王族が顧客となった。
ルイ16世が王位から外されることになるなどを占うが、フランスが恋しくなり、フランス革命最中の故郷に帰ることにした。
※phrenology(ギリシャ語から:φρήν、phrēn、"心";とλόγος、ロゴは、「知識」)は、脳が心の器官であるという概念に基づいて、主に人間の頭蓋骨の測定に焦点を当てた疑似科学であり、その特定の脳領域は、特定の機能またはモジュール、ローカライズされている[1]1796年のドイツの医師フランツ·ヨーゼフガルが開発した[2]規律は、特に約1810から1840骨相学のための主要な英国の中心部までは、19世紀には非常に人気があったエジンバラ骨相学の学会が1820年に設立されたエディンバラだった。
今道徳哲学と原始神経解剖学の廃止された合併とみなしているが、骨相学の考え方は、19世紀の精神医学と現代脳科学に影響を与えてきました。文字、思考、感情、脳の局所的な部分に配置されていることをガルの仮定は、神経心理学に向けた重要な歴史的な進歩であると考えられる。(WIKIPEDIA)
1790年
ルノルマンは裕福な女性となって故郷アレンコンに帰った。
そこで妹とともに軍隊にいる弟のプロモーションを行った。
1791年
パリに戻って、ルノルマンが知ったのは、エッティラがすべてを残したまま姿を消してしまったことだった。
友達のHebertは、彼の著述により名声を得ていた。
ルノルマンは、ここで舞台生活にアプローチするが、彼女の演技は、誰にも買われることがなかった。
失望した21歳のルノルマンは、Rue de Tournon 9にサロンを設けることにした。
これが、後にRue de Tournon 5となった。
看板には『Mademoiselle Lenormand,Libraire』(マドモアゼル ルノルマン 書店)
1792年
ルノルマンが画家Jacques-Louis Davidなどとも出会ったハイソサエティで、友人のエベールがFrancoise Goupileとの結婚披露宴を行った。
このことは、少なからずともHebertに心を寄せていたルノルマンにとって残念なことだった。
1793年
ある晩、3人の男性がルノルマンのサロンを訪れ、3人一緒にリーディングしてほしいと言った。3人は強い絆で結ばれているので運命も一緒であると言う。
彼女は、すぐにこの3人がフランス革命の立役者マラーと、ロベスピエール、そしてサン ジャスだと気づいた。
3人の運命を一緒にシャッフルし、それぞれのカードの表を裏にしてテーブルに置いた。
それから、エッティラのタロットを12枚引いたのちに3枚の裏向きのカードをひっくり返し、その上に1枚ずつタロットカードをおいていった。
その行為をみていた3人はいきなり笑いだして、マラーがカードの上にお金を放り投げた。
カードリーディングが完結していない時期にこのようなことをしてはならない。
ルノルマンは、構わずにリーディングを続け3人に向かって「あなたたち3人は、1年以内に残虐な死を迎えることになるだろう。特マラー、あなたは、仲間の先駆けとなって命を落とし人々はあなたに反目することになる。」
この予言を聞いたマラーは起こった口調で「お前のリーディングは間違っているだけでなく人民への誹謗中傷そのものだ。私たち3人は革命に命を懸けていて死ぬときは一緒だ。」
そう言うと、3人はルノルマンを嘲笑しながら出て行った。
この年の中半、ルノルマンはマリーアントワネットの窮地を救うための王族の夕食会に出席することになった。
翌日、その夕食の席にいた人たちを警察官が捜査していることを知り、ルノルマンは逮捕される恐れに青くなった。
コラボレーションをやめた占星術師Gilbertは、彼女に革命軍の側にいる労働者階級の人たちと同じような出で立ちをして、新たなクライエントたちのためにターバンを巻き、頭に羽飾りをつけてポンヌフの橋の上で一般の人たちのためのリーディングをするように促した。
5月7日のこと
10日後に首を切られると予言された男性が10日後に首がつながったまま警察官を連れてきて、彼女を逮捕させた。
2日間、牢屋に入れられた後、10リブラの支払をさせられたルノルマンは、その後4か月間、マリーアントワネットの処刑が終了するまで身を隠すことにした。
1794年
3月 ルノルマンの幼馴染のHerbertが逮捕され処刑されてしまった。
暴動が続いていた間のことだった。
6月17日 ルノルマンも逮捕され、ラ フォース刑務所に連れられて行った。そこは、ルノルマンが多くの貴族や革命家たちのコンサルテーションを行った場所だった。
7月28日 マクシミリアン ロベスピエールとルイ アントワーヌ サン ジャスはギロチンにかけられて、革命的な暴動の幕が下りた。
8月5日 ルノルマンはやっと酷い留置生活から解放された。
1796年
ルノルマンとジョセフィーヌ ドゥ ボーハネスとの友情が芽生え始めた。
ボナパルトという若い士官との結婚を薦め、ジョセフィーヌはその男性とこの年の3月9日に結婚した。
1796年~1801年
マドモアゼル ルノルマンは、貴族から労働者階級までの多くの人のために働き、世帯主となることができた。
彼女の占術の種類は拡大し、タロット、占星術、カード占い、数秘術、卵占い、手相占い、水占い、鏡占い、顔相占い、挽き割りコーヒー占い、雄鶏占い、キャンドル&ランプ占い、等々の占いを行っていた。
また、演劇のシナリオもいくつか書いた。
しかし、いろいろ物入りでもあり、借金も増えてしまったので占いやコンサルテーションの料金の値上げを試みた。
5フラン(今日のお金で約100ドル=1万円ほど)で、クライエントの過去を開き、現在の状況を少し語り、未来への展望を伝えた。
彼女のクライエントたちは、このようなセッションに大変興味をもって、20フランを払い、詳細を知ることができるセッションへと時間を延長した。
占星術のフルセッションは400フラン
卵占いは100フラン
一問一答セッションでは、ピケのゲームカードから7枚、13枚、17枚のカードを引き、40フランで。
コーヒーリーディングは120フラン。
料金はこの時代としては法外だったが、人々はそれでも彼女のセッションを受け支払った。
ルノルマンは、ジョセフィーヌにも同様に占いを行い、彼女が戴冠し皇后になるということを何度も何度も伝えた。
そして、後にナポレオンが嫌ったマルメゾン=ジョセフィーヌの館にも、しばしばルノルマンの姿があった。
1801年1月~1804年
ルノルマンはナポレオンに背く陰謀を働いたとして、マデロネット刑務所に投獄された。
投獄中に、ルノルマンは子供の頃に観たビジョンを再度観た。そのビジョンとは、王冠に関することでイニシャルのBとEであった。
Bは、ボナパルトのBだと思われるが、Eが誰のことを示すかは誰にもわからなかった。
しかし、B=ボナパルトによってE=アンギャン公が冤罪の末に処刑されたことから、ブルボン家とナポレオンの間は修復できない反目関係となった。
ルノルマンはこのことを予言していたのだ。
1804年3月
アンギャン公(Enghien)=Louis Antoine de Bourbon
彼女のクライエントは、イニシャル「E」の預言に驚いたが、警察は実際に彼女のサイキック能力によるものか、はたまたインサイダー情報を得ていたのか、疑惑をもった。
※アンギャン公
アンギャン公(duc d'Enghien)は、フランス貴族の爵位。
ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン=コンデ(仏: Louis Antoine Henri de Bourbon-Condé, 1772年8月2日 - 1804年3月21日)は、フランスの貴族で、フランス革命期の亡命貴族(エミグレ)。アンギャン公の称号で呼ばれる。
中立のバーデン選帝侯国で潜伏中にフランス軍に王党派幹部として逮捕され、軍事裁判で死刑判決をうけて処刑された、いわゆるアンギャン公事件の被害者であるが、これは冤罪事件として知られる。
1804年12月2日
ナポレオンは、自らを皇帝とし、ジョセフィーヌを皇后とした。
1809年
ルノルマンは再び12日間の拘留となる。
ナポレオンとジョセフィーヌの離婚が成立する間のみ、拘留され、成立後に開放された。ナポレオンとジョセフィーヌの離婚について、ルノルマンは以前から予告していたが、ナポレオンは彼女を介入を嫌ったために拘留して口をふさいだのだった。
離婚が成立したのち、ルノルマンはナポレオンに「あなたは、ジョセフィーヌというお守りを失った。」と告げた。
1814年
パリは連合軍の手に落ち、ナポレオンはエルバ島に島流しになった。
ルノルマンはブルボン王のルイ 18世が王位についたことをうれしく思った。
1814年5月
ロシアのアレキサンダー1世がジョセフィーヌの館を訪れたところ、ジョセフィーヌは、ルノルマンを紹介したので、オカルトの大好きなアレキサンダー1世は、ルノルマンのサロンを訪れることにした。
別の説では、1818年には、エクス・ラ・シャペルでヨーロッパ中の外交官の重要会議が開かれると聞き、そこに自分を売り込むために旅に出るが、国境越えで不正が発覚し、逮捕されたとある。
1814年5月29日
マルメゾンの館で、肺炎のためジョセフィーヌが他界。
1815年1月
ナポレオンの時代に、お咎めを受けていた著書『Les Souvenirs Prophetiques d’une Sybille 』をついに出版。
写本は、新しい王をはじめ、縁のある多くの人に贈られた。
1815年3月
ナポレオンが兵を率いてパリに戻ってきたので、王は身を隠すことになったが、ルノルマンはナポレオンの支配を嫌っていた。
ナポレオンは11週間のみの天下しかなく、後にブルボン家の采配に戻ると予言した。
1815年6月
ワーテルローの戦いにナポレオンは敗れ、セント ヘレナ島に流される。
ブルボン家のルイ18世は、再び帰り咲く。
1815年の最後の月の間、彼女の著書に対してプレスとの激論が戦わされた。
結果的に、ルノルマンは印刷会社を買うことにして、どんどん増刷できるようにしてしまった。
批判する者や、彼女の悪口を言うものたちは、彼女を有名にしてしまう役割を自然とになってしまうはめになる。
1817年
妹ソフィが他界。
姪と甥を引き取ることになる。
1818年
ベルギーにアレキサンダー1世が会議のために訪れることになり、ルノルマンもそこに呼ばれることになった。ドイツとのボーダーにあるこのAix-La-Chapelleという町に出かけたついでに、ベルギーに逃げたフランス革命家たちを訪れる。
1820年
姪が結核のために他界し、ルノルマンは心を痛める。
とうとう、甥のアレキサンダー ユーゴーだけが残されることになった。
Memoires Historiques et Secrets de L'Imperiatrice Josephine を出版し、一夜でベストセラーとなる。
しかし、この著書に対する攻撃もまたすさまじかった。
1821年
プレスとの拮抗に疲れ果てたルノルマンは、ブリュッセルに落ち着くことにした。
2か月ほどたったころ、逮捕され拘留される。社会に反する陰謀を行い、魔術や人の運を占ったという理由で。
6か月の間、痛みを伴う酷い扱いを受けた。
1821年10月
パリに帰る。
1822年
英国に招待され、2年ほど滞在。
1824年
パリに帰り、古巣のRue de Tournonで執筆にいそしむ。
1831年
弟が、戦場で傷を負って没す。
ルノルマンは執筆とリーディングに没頭する。
1843年6月27日
マドモアゼル ルノルマンはこの世を去る。
いくつかの未来への預言を残したなかでも、1915年のドイツの参戦や、飛行機、宇宙旅行などが当たっているところから
再び脚光を浴びることに。
ペレ ラシェーズ墓地には、群衆が寄り集まり、ルノルマンの死を悼んだ。
知らない人が、「誰の葬式?女王か何か?」と聞き「いや、女王ではなく女王の友達で、彼女に予言を渡した人物だ。」
こんな会話がその日の新聞には掲載されていた。
ルノルマンの死後、彼女の友人セリエ・デュ・ファイエルは、彼女の死後2年後に「ル・ノルマン嬢の真実」という本を出し、彼女の自伝は虚構が多いことを暴露した。
ルノルマン自身の著書と、彼女のことを書いた本や英語に翻訳されたものは、Googleの電子書籍の中に所蔵されているので、読むことができます。ただし、フランス語と英語です。
このカードは、レディ シャーロット ゲストという 英国の翻訳家でビジネスウーマンの所蔵となったのがそのひとつです。
彼女は、陶器など美しいアンチークの収集家でもあります。
シャーロットは、へクテルの作ったルノルマンカードのプロトタイプを大英博物館に寄贈したとのこと。
大英博物館に行けば、初期のルノルマンカードを見ることができると思われ、実際に行ってみましたが、現在、印刷物はすべて大英図書館に移されたとのことで、ジョン ディーの魔法陣や水晶透視のためのクリスタルなどはありましたが、ルノルマンカードやタロットカードは展示されていませんでした。もっとも、レディ シャーロットの寄贈したカードは、ルノルマンが制作したものではありません。
養子となった甥の発見したカードは、その後、どうなってしまったのか
とても気になるところです。
左の写真のルノルマンカードは、読み方も、シンボルもルノルマン プチ ジュ―とは別物と考えたほうが良いと思われるカードです。
これらを混同しないように、ここではルノルマン カードのプチ ジュ―をもとにご紹介していきます。
Petit Jeu
Jeuとは、ゲームなどを意味するフランス語です。
Petit Jeu とは、小さなゲームのことですが、このカードを実際に手にとって意訳すると「可愛いカード」「お洒落なお遊び」といった感じになります。
今までのタロットと違うところは枚数もそうですが、
やはり、洗練されたお洒落な点だと言うことができます。
しかし、プチ ジュ―だと言って侮ってはいけません。36枚のカードのジャクスタポジション(Juxtaposition)の1260通りを読み解いていくことで、知りたいことがかなりの精度で明かされていくのです。
ヨハン カスパー ヘクテル。
1771年5月1日~1799年12月20日(享年28歳)
ドイツ人ビジネスマン ノンフィクション作家,デザイナー。
パーラーゲームとしてのプチ ルノルマンのデザインをした。
欧米で今、静かなブームになっている ルノルマンカードは、
タロットカードよりも難解だと思われていて
なかなか、日本に上陸しなかったようです。
長年抑え込まれてきた流れが、いっきに日本で放流され
日本でもこれからブームになると思いますが
マドモアゼル ルノルマンやルノルマン・カードについて気をつけたほうがいいことを明記しておきます。
まず、マドモアゼル ルノルマンの名前ですが
マドモゼルを意味する称号Milleを名前と取り違えてしまう方がいるかもしれませんが、これはMademoiselleを簡略化した書き方ですので、「マドモアゼル」と読むことを覚えておくとよいと思います。
また、このページ左上に示したルノルマン自身が書いたサインをみればわかるように、Lenormandは、一つの綴りとなっていて、Le Normandではないと言う点です。
マドモアゼル ルノルマンの出身がノルマンディーのアレンコンという場所というところから、レオナルド・ダ・ヴィンチがヴィンチ村の出身という意味の「ダ・ヴィンチ」となされているのと同様に「ル ノルマンディ」ということだと勘違いしてしまうこともあるかと思いますが、彼女自身のサインが示しているものが、マドモアゼル ルノルマンの名前です。
次に、これが最も大切な点だと思われる点で、このカードは、マドモアゼル ルノルマンが作ったカードではないと言うことも、しっかり認識しておく必要があります。
ルノルマンが使っていたのは、主にトランプと手相リーディングで、その他のマイナーなリーディング方法をそれに加えていたようです。
サイキックは「神籬」となるものを媒体としてチャネルするので、そのための簡単なインタヴューを交えながら、カード占いを進めていたようです。ただし、マドモアゼル ルノルマンのことをいろいろ調べていくと、彼女はオラクルとしてのカバラの使い方に精通しており、当時、魔術とされていた類の知恵を保持していたことは間違いないと思われるところら、占いだけでなくカードを暗号として使う術ももっていたのではないかと言うことも考えられるのではないかと思い始めました。
その証拠とすることはできませんが、フランス革命期に、敵と味方の双方にリーディングをしているという点から、片方から聞き出したことを簡単にもう片方の人物たちに伝えることができる所にいて、ばれてしまえば簡単に処刑されてしまう立場であったのに、そこを上手に立ち回れることができた点、お金の面だけでなく真に強力な後ろ盾があったのではないかと考えられる点です。
また、一介の占い師にもかかわらず、ルクセンブルグ宮殿から至近距離のパリ中心地にサロンを構え、自宅をその他に持ち、それらの不動産を遺産として甥に残すことができた等、当時の市井の女性としては、かなりの資産家だったと言う点なども、背後の力を知るべしだと思う点です。
マドモアゼル ルノルマンの死後、一緒に暮らしていた女性が、彼女の著書は作り話ばかりだと批判した内容の本を出版したところから、ルノルマンは予言の「後出し」をするずるい女性で、実際には彼女が書いた本に値しないでっち上げ上手の占い師だったとする輩もいますが、そこは賢いルノルマンのこと、自分自身をでっち上げ上手の占い師ということにすることでうまく立ち回ることができたのではないかと思うのです。
ナポレオンとジョセフィーヌの離婚を一番危惧していたのは、当人たちよりも、もしかしたら周囲の政治的な人間関係の諸事情を知っていたマドモアゼル ルノルマンその人だったと考えることもできます。
前夫の処刑後、運命の流れの中で生きるための男性関係を結んできたとも言えるジョセフィーヌが、皇帝の妃でなくなった時から、マドモアゼルルノルマンは、歴史の立役者たちを登場人物とした読み物を書くことで、自分の真の姿をくらます方向性をとり、同棲していた女友達も、また、彼女を悪者にしたてあげることで、ふりかかる難を逃れるという術をとったのではないかとミステリーまがいの想像をたくましくすることができます。
彼女の没後2年たって、ドイツの印刷屋さんが、彼女の人気にちなんで、ルノルマンという名前を付けたのです。
ナポレオンやお妃だったジョセフィーヌのリーディングをしていたことが、彼女の名前を欧州に広めたのは言うまでもありません。
ルクセンブルグ宮殿、ベルサイユ宮殿、ロシア皇帝、フランス革命家たちのリーディングをし、アドバイスをしてきたルノルマンの名前が、フランス革命前夜に成功の階段を作りあげ、そこを一目散に駆け上り、欧州全体に拡散させることに成功したロスチャイルド家が、発祥をドイツとすることから、ルノルマンの名声が、時の勢力争いの勝敗に繋がったところから、勝ち負けを楽しむロシアのカードゲーム「大富豪」(あるいは大貧民)と統合させて販売するという、現代の任天堂のようなビジネス展開が背後にあったのです。
しかし、ルマンカードをプロデュースしたドイツのビジネスマン○○は、発売後2年して28歳の若さで亡くなってしまいます。
ミステリーな背景がここにあるのではないかと勘繰ることもできますが、だとしたら、そのミステリーは、ノルマンディのアレンコンの普通の家に生まれ、パリでお針子として働いていたルノルマンが、なぜそこからロンドンに移住し、25歳までパリの地を踏まずにいたのか?
等、黄金の夜明け団などの魔術的組織が誕生する前のロンドン、魔女裁判に終止符がつけられた直後のロンドンで何をしていたのか?いったい、どんな人たちと関わっていたのか?
等、こちらは、ロスチャイルドならぬ、フリーメーソンのロッジの発祥地であるだけに
興味津々の背景があるはずです。
なぜ、そこに背景があると直観するかと言えば、フランス革命の収拾後、皇帝となったナポレオンの宮殿こそがヴェルサイユであり、そこにはフリーメーソンのシンボルが、あちらこちらに埋め込まれているところから、この宮殿の住人であったマリーアントワネット、ジョセフィーヌなどがフリーメーソンだったことは明らか。
リーディングを依頼する相手も、フリーメーソンとしての立場や情報に明るい人が選ばれる、あるいは、最初からそう決められて時代を動かすための一役を買ったのではないかとみることさえできるからです。
このように見ていくと、ダ ヴィンチ コードで有名になったサン シュルピス修道院の裏手にあるルー ドリノン?にルノルマンがサロンを構えていたことも頷けます。
実際に、パリのこの地区を歩くと納得がいくことですが、このサロンの道は元老院=ルクセンブルグ宮殿まで歩いてすぐの直線距離にあり、ナポレオンと結婚する前のジョセフィーヌはルクセンブルグ宮殿に住んでいたバラスの愛人であったことから、この地区に住んでいたルノルマンと親交を深め、サロン運営に困らないよう、彼女のスポンサーになっていたことがわかっています。
愛人だったポール バラスは、ジョセフィーヌに飽きたので、ナポレオンに紹介したとされていますが、本当にそんな恋愛沙汰がもとで、ジョセフィーヌとナポレオンの関係ができあがったなど、上流階級の人間関係の在り方からみると疑問が生じます。
ジョセフィーヌ(1763年6月23日)は、離婚した前夫アレクサンドル ド ボアルネ子爵のギロチン刑に対し、助命嘆願をした罪で投獄されてしまいましたが、牢獄の隣部屋にいたルイ ラザール オッシュ将軍と愛人関係になっていました。しかし、ロベスピエールが処刑されたことにより、釈放され、その後、生活のためにポール バラスの愛人となったのです。
ここで言及しておかなければならないのは、マドモアゼル ルノルマンはロベスピエールのリーディングもしていたという点です。
<pバラスの愛人となったジョセフィーヌや、その後の夫となったナポレオンは、ルノルマンを中立な占い師として見ていたかどうかは、はなはだ疑問です。
バラスは、テルミドールのクーデターの首謀者の1人で総裁政府のリーダー格だった。その腐敗ぶりから「悪徳の士」とよばれたような人です。多分、バラスはジョセフィーヌをなんらかの形で利用するためにナポレオンに与えたのではないかと思います。
バラスは、その頃、世界経済支配へと知恵を巡らせていたドイツ・ロスチャイルドと手を組んでいたところから、金融だけの力で欧州を支配するのではなく、軍隊や兵力の力を使うために、軍人としての名誉欲をもったナポレオンに白羽の矢を立て、ジョセフィーヌを彼のもとに送り込んで、ロスチャイルド家とフリーメーソン支配のためのパイプラインとしたのではないかと推測することもできます。
ナポレオンが勝利をおさめはじめると、ロスチャイルドは大陸封鎖をし、ロンドンに駐在させていた息子にコットンを大量に買わせることで現在の巨万の富を築きあげる礎を創りあげましたが、その陰で用のなくなったバラスは失墜していきました。
ジョセフィーヌには、男っぷりのよい恋人とのアフェアを楽しみ、戦場で業を煮やすナポレオンが妻に宛てた手紙はイギリス艦隊の手に落ち、新聞にすっぱ抜かれ、結果2人は離婚しナポレオンは、他の女性と結婚することになるのですが、私は男性から男性の手へと渡り歩く運命をもつジョセフィーヌは、この時もまた、誰かの手により仕組まれたドラマの中で、離婚へとし向けられていくことになったのではないかと想像すると、ナポレオンもまた巨万の富を創りたい商人の手先として翻弄された軍人ではなかったかと想像することも容易いと思います。
だとしたら、離婚を留まるように忠告したマドモアゼル ルノルマンはジョセフィーヌとナポレオンを運命の陰謀から守るための忠告をしていたのではないか?そして、その忠告が邪魔だったために投獄されたのではないかとも考えられるのではないかと思います。
しかし、私は、なぜマドモアゼル ルノルマンに対して寛容なのかと言えば、彼女のインタヴュの仕方が私の行っているSI-Vシンプル化インタヴューのキーワードを拾う部分と似ている感覚をもっており、なおかつ、同じ星座の下に生まれた者として、ふたご座独特のコミュニケーション能力にシンパシーを感じるからです。
簡単に言えば、私はルノルマンカードの名前の由来となったマドモアゼルルノルマンを理由なく好きなのです。
そして、現代という革命にも似た気配をもつ時代に、彼女の名前のついたカードがめぐって帰ってきていると言う点に、何かの暗黙知の理由を感じるからなのです。
ナポレオンとの離婚後、ジョゼフィーヌは年500万フランの年金などと共にマルメゾンを自らの所有とし、以降はこの城はジョゼフィーヌの居館として1814年にロシア皇帝を迎えるなどしているので、ルノルマンがロシア皇帝と親しくすることはあったとすれば、ジョセフィーヌを介して、このマルメゾンで出会っているのではないかと想像できます。
ジョゼフィーヌは1814年5月29日50歳の若さでこの地で没しました。
その時、ルノルマンは、まだ42歳でした。
1843年に死亡のルノルマン
歴史の表には、必ずそれを創り上げている背景と「裏」があるということは、読者の方たちもご存じのとおりだと思います。陰謀説と呼ばれる穿った見方だとする人たちもいますが、歴史は寝室で作られるという言葉が示すものは、あながち、無視することはできません。 <p
ルノルマンが何度も投獄されている点をみても、なぜ、投獄後また、すぐに返り咲けるのかという不思議さがここにあります。
ルノルマンの能力故に!としたいところですが、それだけではないはずです。
占い師としては法外といえるほどの財産を不動産として築いた彼女は、晩年、占い師から作家へと転身しますが、作家としての成功は、そこそこだったようです。
なぜならば、彼女
執筆したものには、自分のリーディングの成功例が書かれており、その成功例は、リーディングしたからこそ起きたという事実の前後が置き換えがあるところからルノルマン自身の宣伝書籍となってしまい、人気が出なかったようです。
では、なぜ作家に転身しなければならなかったかというと、そこには、ルノルマンが望んでいなかった、ある出来事が起きてしまったからです。
その出来事とは・・・
それが、ジョセフィーヌとナポレオンの離婚です。
ナポレオンの遠征中に、ジョセフィーヌが浮気をしてしまったことが原因と言われていますが、パリにエジプトのカルナックと同じ太陽王の凱旋のラインを創りあげたナポレオンは、エジプトに足止めを食らった時、何かに気づいてしまったのではないかと思うのです。
イタリアのシシリー島から追放された兵士が、パリで出世の階段を昇って来た時、そこには勝利の女神とでも呼べるジョセフィーヌの存在がありました。
しかし、そこに、ナポレオンが欲した愛はあったのでしょうか?
戦場にいるナポレオンに優しい言葉をかける妻はいたのでしょうか?
年齢とともに、性的な魅力よりも、愛を求めはじめたナポレオンが見破ったものがあったのではないでしょうか?
さて、そんなナポレオンとジョセフィーヌの離婚は、ルノルマンにとってジョセフィーヌという皇帝のお金を横流しできるスポンサーを失う大きな損失に繋がるので、慌てたのではないでしょうか?
ルノルマンは、ナポレオンの離婚は、地位を失う元凶になると、カードを使って伝えました。
「何度占っても、クラブのジャックが出る。ほら、また!」と、ナポレオンの失墜をトランプのカードを見せながら阻止しようとするルノルマンでしたが、すでに陰謀をもとに作られた関係を見破ったナポレオンは、「離婚が成立するまで、この女を投獄しておけ。」とルノルマンを牢屋に送ってしまったのです。
トランプは、タロットカードの小アルカナに似た意味をもっています。
枚数も同じなので、スペードは剣、ハートは盃、ダイアは星または玉、クラブは棒とみたてられ、カバラ的数秘術をもとにスートと数の意味を読み解き、状況に照らし合わせた言葉に翻訳することで、リーディングすることができます。
医者に診断される患者が、医者と同様の経験と知識、技術をもっていないのと同様、処方された薬を鵜呑みにしたり、信用して手術台に乗ったりする人の方が多いということと同様に、しかし、このリーディングを受ける人が、リーディングに長じているとは限りません。
ルーマニアのジプシーが、イギリスのスピリチュアルフェスティバルで、小金稼ぎにテーブルを並べていることがありますが、彼女たちの手法は、受け手の内面を紐解き、解放する類のものではなくコールドリーディングで巧みに「占っている人が欲しいカード」を手品の手法で取り出すことができます。
この見事なマジック(手品)を、目の前で見せてくれるというエンターテインメントには料金を支払う価値があると思いますが、自分の悩みや将来を真剣に考えたいときに得られる答えは「あなたの思っている通りになる。」というものと、上手な聞き役を得た時に得られるカウンセリング効果のみです。看板に唄っているものとは異なるものを手にするわけですが、それでも人はリーディングが行われている不思議な時間の中に満足を得ます。
しかし、これを逆手に取ることも簡単に行えるわけです。
もしも、36枚あるいは52枚のカードを無作為に並べられて、そのカードをたどりながらストーリーを作り、相手に一番影響を与えるカードを取り上げてフォーカスさせたら、それだけでマインドコントロールを行うことができてしまうのです。
ナポレオンが欲する真実の愛のほうが、ルノルマンの暗示よりも強かったのでしょう。
首尾よく離婚したナポレオンを失った後、彼の愛に気づいたジョセフィーヌの「愚かさ」は、前夫をギロチンにかけられ、自らも投獄されていたジョセフィーヌが生き抜くためには、牢屋から解放してくれたバラスの愛人となり、彼の言いなりにナポレオンを操作するパイプ役となり、夫の留守に、愛人とのアフェアに没頭するしかなかったという「憐れ」の上に成り立っているとみることもできるでしょう。
そう言った見方をするときに、ルノルマンの真の価値が見えてくるのです。
権力と財力で物事が動かされていく社会の中、パリのサンジェルマン デ プレとサン ミッシェルの間にある、小さなサロンの中、ルノルマンはジョセフィーヌを通じて、お針子ごときでは召し入ることができない世界に参入し、時代の大きなシーンの創造に一役買ったのです。
そして、一介の占い師でも、時の要人と対等に渡り歩くサロン・オーナーとしての成功の雛型を創り上げたのです。
女性に秘められた能力を欲する人たちに、惜しげもなく与えたとすれば、その能力とは何だったのでしょう?
ルノルマンカードの講座を受ける方たちは、皆さん自己実現に大変興味をもっている方たちです。
今までスピリチュアルなセッションで自分の内面を見つめてきたので、ここから、更に先に進む時期が来たと感じていて、そのためには「自己実現」に向かおう!と心の奥底で決心している方たちのようにお見受けします。
ルノルマンカードの名前となっているマドモアゼル ルノルマン自身も、自己実現を果たした人ですが、ここでは、そういったルノルマン式の自己実現ではなく、ルノルマンカードを使った自己実現について少しお話ししたいと思います。
ルノルマンカードの講座の中では、自分で人生を切り開いていく人たちの層と、自分の人生を人にゆだねて生きていく人たちの層の違いについて、ピラミッド式の社会構造と36枚のカードとの関連をもとにお話しを聞いていただいていますが、このお話しを聞いた皆さんは少なからずともショックを感じてしまうようです。
それは、今まで「これでいい、これが正しい生き方だ。」と思っていたものが、実は、自分で人生を切り開いていく方法ではなく、上手に支配してくれる人を求めていたのではないかと気づいてしまうからだそうです。
しかし、結局、それが自己実現のスタートラインにつくことなのです。
ただし、人生を切り開いていくと言うと、男性性が強い感じがするので、女性には「自分で人生の花を咲かせていく」という感覚の方があっているのではないでしょうか?
スピリチュアルなお仕事
スピリチュアルを仕事にしたいという女性の相談を受けることがよくあります。
そこでスピリチュアル・ブランディングというセッションを始めることにして、スピリチュアルをお仕事にしたい方たちがスピリチュアルセッションをできるようにサロンを用意し、そこで活動のスタートを切っていただきたいと考えました。
それが、「アートヴィレッジ」という構想で、拙著「ユア ターン~あなたの番~」でご紹介させていただいたのですが、スピリチュアルを仕事にするためには、スピリチュアルな思考とは度逆の、現実的な対処を知らなければならないし、人間関係の創り方や法律なども知らなければならないということに、スタートを切ったとたんに気づき始めます。
スピリチュアルなお仕事をしている間は、トランスに入っている感覚で、この世界の雑事から意識が離れて高次へと参入していきますが、ひとたび、お仕事が終了すると借りていたサロンの支払や、税金の支払いなど、極めて現実的な場へと意識を戻さなければなりません。
スピリチュアルなお仕事で成功している方たちを見ると、過去、広告関係の会社で売り上げを上げていた方とかコンサルタントとして既に活躍されていたとか、この世界での現実的な成果を上げたことがある方が多いと言う点に目をつける必要があるのではないでしょうか?
スピリチュアルなお仕事も、「お仕事」です。
芸術家だから何をやってもいいと思われた時代や、スピリチュアルだから飛んでいるのだと思われる時代はすでに過去のこと。
そちらの方が、社会的に受容の高いサブジェクトなので、実は案外、簡単に学べるのです。
今まで何も仕事をしたことがないけれど、スピリチュアルをお仕事にしたいという方は、
何か一つ、知識をつけてみるだけでスムーズなスタートを切ることができるようになります。
サロンで成功する方法
サロンで成功するためには、まず、サロンが必要!と誰でも考えるのではないかと思いますが、実際は、サロンで成功するためには、サロン以外での活動の方が大切です。
カードリーディングは、外でワイワイやるようなものではありませんので、どうしても静かなサロンが必要と考えがちですが、実際は、ワイワイできるほどの人間関係を作ろうと思う気概が大切です。
究極を言えば、サロンなどなくても、カードリーディングで成功することができるということです。つまり、場所ではなく「認知度」が大切なのです。
マドモアゼル ルノルマンの人生の歴史を見ても解るように、彼女は認知度を上げるためには、その世界の一流と言われる人たちに率先してあったり、そのためにはわざわざロンドンまででかけていったり、貯金をはたいて宝くじを買ってみるというような文字通りのギャンブルまで行っていたのですから、認知度を上げるための努力は怠っていなかったことがよくわかります。>
ここで言う認知度とは、2つあります。
1つめは、お客様に認知されること。
2つめは、その世界の一流に認知されること。
サロンを借りるだけでは、不動産業者の方やご近所と知り合うだけで終わってしまうこともあります。引きこもっていればの話ですが、カードリーディングは内面に向かうものなので、どうしても内向的になるのは確かですから、サロンで成功するためには、サロンを変えいる前に、認知度を上げるための、自分らしい方法を模索することが大切です。
そういった事柄を繊細に見ていくためにはルノルマンカードの36枚すべてを使ったグランタブローが最適です。セッションも90分かけてじっくりと行うので、どんな方法で認知度をあげればよいかがクリアになってきます。
自分らしい方法をみつけることが、何よりも大切なのです。
フランス革命豆知識
自由、平等、博愛というスローガンで革命が進められたのは、多くの人が知るところですが、この自由、平等、博愛というスローガンは、いったいどこから来たものなのかを知っている人は少ないかもしれません。
これと同じスローガンを使っている共同体を探してみると、フランス革命の背後には何が働いていたのかを違った角度からみることができます。
また、自由の女神はニューヨークのマンハッタンにあるものとして有名ですが、もともとフランスにあったものだと言うことを知っている人は、その半分ほどではないかと思います。
更に、フランスの送った自由の女神が気に要らないので、フランスに返したと言う話を知っている人はその半分ではないかと思います。
更に、その自由の女神が実は女神ではなく「ゴーゴン」という蛇の髪の毛をもっている女の妖怪で、蛇のように邪悪な3人の女の妖怪の一人であると言うことを知っている人はその半分にあたるかもしれません。
なぜ、蛇の化け物が自由の女神になってしまったかを考えると、人間というものは言葉に騙されやすいものだという結論が出てきてもおかしくありません。
本当の姿はいったい何かと言うことを知ることが、フランス革命の全貌を見るために必要な態度ではないかと思います。
否、世界を変えた大きな出来事の真実は、後世にならないと、なかなか見えてこないのではないかと思います。
そういった点で、フランス革命はいつ終わったのか?という問いを発すると
もしかしたら、まだその最中であり、それがグローバリズムと名を変えているだけかもしれないという視点を得るはめになるかもしれません。
人の一生から時間を考えると1世紀は長い時間ですが、
宇宙の時間からすると18世紀も21世紀もそんなに時間差のない時代に見えるのではないでしょうか?
自由、平等、博愛をフランス革命の豆知識とするために、そのルーツを調べてみることからはじめましょう。
見えて来るものがあるはずです。
カバラとトランプ
ルノルマンカードには、トランプの図柄がついているカードと、そうでないカードの2種類があります。>
ルノルマングランジュ―と呼ばれる52枚のデッキには、トランプだけでなく、花や星座までが描かれていて、このカードいったいどう読むのだろう?と、頭を抱えてしまいそうな気分になる人もいるそうです。
実は、このトランプの意味や数字の意味、トランプとタロットの小アルカナなどの意味が、何らかの法則に従って複雑に絡みあいながら、シンクロの世界を醸し出しているのがルノルマンカードなのです。
なぜ、そのような仕組みになっているかを考えるともしかしたら、それこそが、ルノルマンという名前をこのカードの使っている一番の理由かもしれない、という答えに近づきます。
マドモアゼル ルノルマンの人生を大きく転換したものの中に、
義理の父親アイザック(ISSAC)のパリのお店で働いていたときにお客様からいただいたといわれるカバラの数秘術の本が、
彼女の知識とインスピレーションに多大な影響を与えたのではないかと思われる点がそれです。
カードリーディングや、エンジェルカードなどのメッセージカードは、
西洋の思想がもとになっている物が多くあります。
カードに使われる数はカバラ数秘術、エンジェルの名前もゲマトリア数秘術をもとに作られているものが多く、
だからこそ、シンクロした答えが得られるという仕組みなのです。
その観点からみると、トランプは純粋に数を示しているだけでなく4つのスートのもつ階層の意味も含んでいるので、かなりのシンクロを起こす役割を果たしていると言えます。
カバラとトランプがルノルマンカードに上手に使われていることを知ると、研究も更に深められると思います。
自分らしく生きるために
自分探しと言う言葉が少し前に流行りましたが、自分を探さなければならないほど、自分を見失っているときには、探しても探しても、自分をみつけることなど容易ではないと思います。
なぜならば、自分を探している存在は「自分」ですから、忘れ物が忘れ物を探しているような不思議なパラドックスがそこにできあがってしまうので、自分探しという事象そのものが摩訶不思議なことだとわかると思います。
しかし、自分を探すためには、まずその探し物をする自分を探さなければ、何も始まらないでしょう?という向きもあるかもしれませんが、そうであれば、いっそのこと言葉を変えて、「自分創造」と言うものに変えてしまった方がクリエイティブなのではないかと思います。
その際に、探さないで、創ってしまおう!ということです。
自由に、好きなように作っていいよと言われると、その時点から自分の中にある制限がどんどん前面に出てきて「こんなことしてよいのか?」「この方法でいいのか?」「こんなことをして叱られないか?」「嫌われないか?」など等、次から次へと制限が出てくるはずです。
白紙の紙をもらって、何を書いてもよいと言われると、何かルールが欲しいと思ってしまうのと似て、なかなか自由に創造するということもすんなりとはいかないはずです。
しかし、自由の効能は、制限を見せてくれると言う点にありますから、それをとことん使っていくと、自分はどんなに制限に満ちていたんだ!と気づくことになるのです。
その時点で、初めて、探していた自分は制限の中に埋もれていたんだ!と瓦礫に埋まった人を救出するような気分で、一目散に自分を救出しはじめるかもしれません。
自分らしく生きるためには、自分を探す前に、自由に自分創造をして、自由に行動して見ることをおすすめします。
そうすると、自動的に制限が目について、鼻についてきます。
そうして、制限の中に埋もれていた自分を救出して、奇麗にしてあげて新たに創り上げる。
やっと、自分らしく生きる自分がそこに登場します。
そのプロセスをサポートするツールとして、ルノルマンカードは秀逸です。
セッションだけでなく講座を受けることで、そのプロセスは更にパワフルなものになります。